きずなの作文コンクール”このまち思いエピソード”結果発表

たくさんのご応募ありがとうございました。
2021年10月18日より開催の当キャンペーンは、2022年1月12日をもちまして終了いたしました。

広島のまちを想う、心あたたまるエピソードを多数お寄せいただき、誠にありがとうございます。
多数のご応募の中から、厳選なる審査の結果、一般コースから、最優秀賞(1作品)・優秀賞(2作品)、
児童コースから、最優秀賞(1作品)・優秀賞(2作品)、審査員特別賞(3作品)を決定いたしました。
受賞者および作品を発表しておりますので、ぜひご覧ください。

一般コース受賞作品発表

時遅くとものイラスト作品の内容から連想される風景を、広島ガスアニメCM 「このまち思い物語」のスタッフが描いたイラストです。

最優秀賞

“時遅くとも”

ペンネーム:虹色 ばた子さま

【思い出の場所[広島県緑化センター]】

 四十路をとうに過ぎた遅い結婚でした。花嫁の私には一つ、夢がありました。色打掛を着てみたい。「桜の下で写真を撮ろうよ」。樹木医の主人が提案してくれました。しかし、二人のスケジュールが合いません。「それなら、広島県緑化センターで撮ろう」。主人が言いました。「あそこは桜の種類が県内で一番多いから、4月末まで何かの桜が咲いているよ」。
 4月10日、桜文様の半襟と金と橙色の色打掛に身を包み、すでに葉桜になってしまった桜並木を不安な気持ちで車窓から眺めながら、広島県緑化センターに向かいました。ところが、車を降りると一面に燦爛たる桜吹雪。盛りを終えた染井吉野の花びらたちが、風に乗って一斉に青空を舞っています。市街地より気温が低いため開花の時期が遅いのです。そして、薄紅の八重紅枝垂れ桜が満開で、他にも、圧巻の紅紫の山躑躅に、絞りの紅白の流れるような枝垂れ花桃、それらが蒼天を背景に咲き揃っていました。
 春の主役は染井吉野だけではない、桜だけではない。出会いが遅かった私たちは、普通の夫婦のように子供を授かるかわからない、金婚式や銀婚式も無理だろう。しかし、時遅くとも、可憐に咲いている花々を見ていると、大丈夫、その分、一日一日を大切にして二人で生きていこうと思えました。来年も、そのまた来年も、主人と来られますように。
 この景色を守ってくださっている皆さんに感謝しつつ、必ず春はこの光景を思い出します。

優秀賞

“母への勾玉”

石原 雅彦さま

【思い出の場所[広島県尾道市向島]】

 瀬戸内海の島、向島で育った。夏休みはいつも母親と二人で海岸に出かけ貝や魚を採って遊んだ。友達は家族で遊園地に遊びに行っていたが、珍しい貝や魚を見つける事が楽しかったし、大好きな母を独り占めできるのが最高に嬉しかった。
 ある日、不思議な石を見つけ先生に聞いてみると、大昔の勾玉かも?と教えられ早速調べた。
【昔の王様やお姫様の宝物、宝石】、【瀬戸内海には勾玉で有名な島がある】と記してある。
 どんなお姫様が持っていたのだろうか?毎日磨く姿を母は笑顔で見つめて「まあちゃんがプレゼントする素敵なお姫様はどんな人かね?早く見てみたいよ」といつも言っていた。
 九州で就職して数年後、母が入院したので帰省した。遠くを見つめ「あの時の勾玉、まだ持ってる?キレイだったね」との母の問いかけに、「もちろんだよ。まだ大切に」と忘れていた事を誤魔化して笑って答えた。
 次の見舞いに探し出した勾玉を持って行き昔話に花が咲いたが、「ごめんね、何処にも連れて行ってやれなくて」と小さな声で呟く母の顔を見ることが出来ず「まだあげるお姫様見つからないよ」と笑って答えた。
 それから数日後、母は旅立った。胸に勾玉を抱いて。「本当にプレゼントする人はお母さん、貴女だったんだね。ありがとう。」
 辛い事、悲しい事があってもこの勾玉を見つめていると美しい瀬戸内の島々や母の笑顔を昨日の様に想い出す。私には本当に素晴らしい故郷である。

優秀賞

“純愛アゲイン”

ペンネーム:いちごピースケさま

【思い出の場所[絵下山]】

 キラッキラだった時代の愛しい記憶。月日が経った今も、ずっと心に残っている。
 昔…オシャレでカッコイイ彼と、シトロエンで初めて絵下山の夜景を見に行った。頂上に着いて、パーッと開けた視界から広島市内の夜景がきらめいていた!海田大橋のライトアップもロマンチックだった。時間が止まれば…そう思うくらい幸せだった。
 大好きな場所になり、いろんな季節に訪れた。春には桜がきれいだった。夏は木陰でルーフからの心地よい風を感じて、濃い緑の木々を眺め、夕刻にはヒグラシの鳴く声が聞こえた。秋には黄色の落ち葉が敷き詰められて、じゅうたんみたいだねってはしゃいでいた。冬、雪が降った時は別世界だった。一度だけ茶色の野うさぎを見た。夕暮れから日没にかけてだんだん辺りが暗くなるのに反比例し街の灯りが増えていくのが好きだった。お昼ご飯で下山した以外はずっと居た日もあった。「時間持て余さない?」と友達に驚かれたけど、退屈なんて1ミリもなかった。頂上の少し手前、徒歩で行く展望スポットは、静寂に包まれ、遮るモノがないパノラマの夜景で、星が降ってきそうだった。100回以上行った。どれほどの時間その彼と絵下山で過ごしただろう…。
 多島美と市内の景色が楽しめる、こんなに素敵な場所がすぐ行ける所にあり、誇りに思う。願わくば、もう一度あんなに夢中になれる恋がしてみたい。

児童コース受賞作品発表

最優秀賞

“六年間の地域の思い出”

ペンネーム:ののさま

【思い出の場所[原の通学路]】

 「おはようございます。」
 私はいつも地域の人、安全パトロールの方達にあいさつをしている。でも一人だけ、他の人とちがった朝のあいさつをしている相手がいる。どんな風にちがうのかというと、
 「おはよう。今は、七時二十分。いってらっしゃい。」
 と、とても優しく伝えて下さった。その時の時こくを時計で確認して、教えて下さるのだ。
 このような会話は私が一年生の頃から続いている。そのきっかけは、学校の友達と登校している時、(今、何時だろう。)とちこくをおそれていたときだった。私たちはあわてていた。丁度その時、その、交通安全の方がそこにいらっしゃった。私は勇気を出して聞いてみた。
 「あの、今何時ですか?」
 この事がきっかけで毎日のように時間を教えて下さるようになった。六年間ずっと時間を教えて下さった交通安全の方に私は何か、感謝がしたい。これを機会にいつもの感謝の気持ちを伝えようと思う。これから私は、小学校を卒業して中学校へ入学する。通学路は変わらない。これからもあの方に、元気な声を届けることができる。それに、一人だけじゃない。たくさんの交通安全の方、地域の方、そして、学校の友達や先生が私を見守り、支えてきてくれた。そんな大事な人たちに感謝の気持ちを伝えながら、これからの限られた学校生活を送っていきたい。

優秀賞

“クレーンと私”

後河内 貴紗さま

【思い出の場所[宮原小学校]】

 わたしが住む宮原のまちからは、JMUのクレーンが見えます。通っている宮原小学校からの景色は、日本遺産の歴史の見える丘の景色くらいきれいです。
 最近わたしは、その景色を描いてみようと思い、図工の時間の合間にえんぴつで、がんばってクレーンや船、海の向こうのゆめタウンや工場を描いてみました。最初は大きいクレーンを何十分の一にして画用紙に描き、バランスも考えなければいけなかったので難しかったです。なんとか描き終わって先生に見せると、
 「すごい!作品展の絵みたいだね!」
とほめられて、うれしかったです。
 クレーンは、他にも様々なものを見せてくれます。
 わたしが二年生のとき、帰り道にクレーンがきれいに見える所があって、ふとそこを見ると、クレーンのものを吊り上げる部分と、しずみかけの夕日が重なって、クレーンが夕日を運んでいるような光景を見ることができました。
 (今日は、きれいなものが見れたな。)
と思って帰りました。次の日も、また次の日もクレーンを見たけど、その景色が見られたのは一回だけでした。
 最初は、クレーンは大きいくらいしか分からなかったけど、このまちに住んでいくうちに、クレーンにはたくさん思い出ができて、今では大好きです。

優秀賞

“思い出の場所”

吉村 大希さま

【思い出の場所[大崎下島]】

 僕の思い出の場所は、大崎下島です。大崎下島には久比港という漁港があり、僕はお父さんについて、よく釣りに行きましたが、前日は憂うつな気分でした。朝六時頃に現地へ着きますが、冬場はまだ太陽が昇っておらず、吹きさらしの防波堤の上はとても寒いです。僕の役目は凍った釣り餌を海の水を少し入れて解凍させることで、凍るような海水に触れると、手がかじかみます。おまけに僕はしょっちゅう釣り糸をからませたり、仕掛けをなくしてしまったりで、魚はあまり釣れず、釣りへついていくのがいつしか嫌になってしまいました。
 ある冬の日、釣りの帰りにみかん販売をしているお店に寄りました。そのお店はみかん詰め放題三百円で販売していました。僕は、みかんが大好きなので、ワクワクしながら張り切ってみかんを詰めました。みかんを売っているおばあちゃんが、清算の時に「僕、広島市じゃあ、この値段じゃ買えんけえね。いっぱい詰めて帰りんさい。」と言ってくれて、膨らんだみかんの袋にさらにみかんを乗せてくれました。僕は帰りの車の中で、みかんをたらふく食べました。とれたてのみかんは果汁がつまっておいしくて、僕は一気に得をしたような、幸せな気分になりました。
 今は、もうそのみかん販売店はなくなってしまったけれど、僕の辛い釣りの思い出を、いい思い出に変えてくれた場所です。

審査員特別賞受賞作品発表

広島電鉄賞

“祖母とのデパートめぐりの想い出”

小野 京香 さま

【思い出の場所[八丁堀から紙屋町]】

 戦中戦後、物の無い時代を生き抜いた祖母は、女手一つで母を育て、平和な世の中になり自由に買い物ができるようになると、デパートでの買い物が大好きでした。
 子供の頃、私と姉と弟は、数か月に一度、祖母に福屋と天満屋デパートへ連れて行ってもらえる、という日がありました。三人まとめては大変だったようで、私と姉の二人を連れていく日と、弟は別の日に、との約束でした。
 宮島口から広電でコトコト八丁堀まで行くのが楽、と祖母はいつも広電に乗りました。乗り物酔いをする私は、電車の窓から外を眺め、そごうのウネウネ(今もある、扇を重ねたような外壁のデザイン)が見えたらあと少し、と嬉しくなったものでした。
 昼食は福屋の食堂、おもちゃは天満屋で買う、と祖母は決めていたようで、二つのデパートを楽しく往復していました。時には映画館へも連れて行ってくれ、今は東急ハンズになっている映画館で見た、初めての映画は白鳥の湖だったと記憶しています。そごうの地下の御座候も好きで、よく買って帰りました。
 祖母は数年前に天寿を全うし他界しましたが、おしゃれと美味しいものが大好きな、優しい祖母でした。福屋やそごうを見れば祖母を想い出し、電車に乗れば祖母と過ごした日々を想い出し、幸せな気持ちになります。私は今でも八丁堀から紙屋町界隈が大好きです。

広島県ブランド・コミュニケーション戦略チーム賞

“おじいちゃんと灯篭流し”

ペンネーム:なもち@広島おでかけさま

【思い出の場所[平和公園・元安川]】

 祖父が15歳の頃、曽祖父が広島市内で被爆し、家に帰った数日後亡くなりました。長男だった祖父は、曾祖母と4人の兄弟を支えた立派な人でした。家族皆の中ではそんな強いイメージの祖父でしたが、私にとっては優しいおじいちゃん。保育園の保護者参加の徒競走で一位になったり、孫のために一生懸命楽しませようとしてくれる人でした。
 そんな祖父が大切にしていた行事の1つが灯篭流しでした。毎年8月6日に祖父は平和公園の灯篭流しに行っており、私も祖母と一緒に連れて行ってもらいました。ご先祖様を思い、本来は静かな気持ちで訪れるべきなのでしょうが、小さな私にとっては祖父母と一緒にお出かけ出来ること、それだけで嬉しかったことを覚えています。
 時が経ち、広島と世界の架け橋になりたくて、海外に行った際、海外から見た広島は悲惨な過去を抱えた街というイメージでした。もちろん悲惨な過去は忘れてはいけないけれど、私は祖父のような強く優しい広島の人達の努力によって、焼け野原から今こんなにも美しい街に復興・発展してきたことを誇りに感じており、その事をもっと伝えていきたいと感じました。
 そんな祖父が亡くなって数年。祖母も昨年亡くなりました。2人の大切にしてきた平和への想いと、広島が大好きという気持ちは、しっかり孫の私へと受け継がれています。私も子供が出来れば、そういう想いを伝えていきたいです。おじいちゃん、また今年も灯篭流しに行くね。

紙屋町・基町にぎわいづくり協議会賞

“帰る場所”

金津 康太さま

【思い出の場所[広島バスセンター]】

 “このまち思い”エピソード。広島での思い出の場所と聞かれ、恥ずかしながら、ぱっと思い浮かばなかった。
 広島といえば、お好み焼き、牡蠣、もみじまんじゅう、カープにサンフレと次から次へと出てくるのに、改めて考えるとどこなのだろう。ポスターをぼんやり眺めてみると、過去の記憶が蘇ってきた。
 私は、生まれた時からずっと広島で育ってきた。転勤することもなく、住み慣れた土地で何不自由なく過ごしていたが、大学への進学をきっかけに広島を離れることになる。中学生の頃から持ち続けた教師になりたいという夢を叶えるために、そう決意した。
 帰省する時に必ず降り立っていたのが、広島バスセンター。到着して、壁面の広島の風景を見る度に、まるで「おかえり。」と声を掛けられた温かい気分になった。広島を離れる時は、必ず母が見送りに来てくれた。「またいつでも帰っておいで。」と、バスが見えなくなる最後まで、ずっと手を振ってくれた光景が今でも忘れられない。照れ臭くて言えなかったが、どれほど嬉しくて、どれほど心強かったことか。「必ず教師になり、広島へ帰る。」という私の決意を、より確固たるものへと変えてくれた。
 あれから七年。私は教師になり、児童と一緒にこの作文を書いている。相変わらず、上手に魅力は伝えられないが、ありのままの私を受け入れてくれる、このまちが大好きだ。