じーっと見つめる目。どこかに愁いを含んだ瞳。どこまでも澄んだ瞳。写真の中の子供たちに見つめられて,胸が熱くなり涙が溢れそうになった。シャッターを押し続けられた田沼先生は,その時何を考え何を感じられたのだろう。
――先生のお写真を拝見して,写真が語りかけてくるのが不思議だなって。
「ありがとうございます。私は,写真というのは,写している人間の心が相手に伝わって,それで写真ができあがる。撮る人の感情が伝わらないと,心を打つ写真はできないと考えています。本人が語るのではなく,写真が語らなくてはと」
――ところで,どうして子供たちの写真を撮られるようになったのですか。
「子供は一番直接的で,自分の喜怒哀楽がパッと出てくるでしょ。それに,特に途上国の子供たちは,社会の荒波をもろに受けて生活していますから,子供を撮ることでその国の社会背景が見えてくる。国を写し出す。そう考えています」
――それより,さらに遡って,なぜ写真家に?
「本当は彫刻家になりたかったんですが,戦時中ということもあって親に大反対されまして,建築家に妥協(笑)。進学もままならないでいると,友達が写真の学校に願書を出しておいてくれたんですね。実家も写真館やってましたし,アメリカの『ライフ』っていう写真週刊誌を年中見てまして,報道写真の方に行くのもいいかなって(笑)。写真学校卒業時は,戦後まもなくだったので,写真家も少なく注文の仕事に追い回されていました。そんな時,師匠である木村伊兵衛に『ジャーナリズムの世界で写真家になりたいなら,自分の写真撮らないと,いずれ捨てられるよ』と言われましてね。そんな折,タイムライフ社が契約したいと。それがきっかけで,自分の写真を撮るようになりました。1965年の事なんですけどね」
――最初にお撮りになりたいと思われたのは,何ですか。
「東京に住んでいましたので,武蔵野の風土,それに世界の子供を撮ること。10年たって,『武蔵野』その後,『すばらしい子供たち』という写真集になりました」
――写真展と写真集の想いの違いは?
「写真展というのは一回で消えてしまいますが,写真集は本人が死んでも残りますし,人間忘れるからある時引っ張り出して見ると,その時代が見えてきます。写真の生命というのは記録ですから。時代を写し撮って,記録していくという。本音を言えば,自分の子供ができるようなものですからねぇ。10冊ぐらい写真集が出た頃でしょうか,こんな素敵な仕事はない!って思えるようになりました」
――世界中飛び回ってらっしゃいますが,そのエネルギー源は…
「やっぱりテーマに惚れるってことですね。惚れて燃える。そうしたらどこだって行けます。写真も惚れて燃えて写さなくちゃ,自分の心が相手に伝わらない。人生燃えるってことは素敵なことです」
――今の若い方へのメッセージはありますか。
「原始時代から人間の根底に流れるものは同じです。文明が発達しても,人の心というのは変わっていない。人はだれもが生きる喜びを味わい,夢をもち,愛しあう。一方ではふりかかる悲しみに耐えて生きている。21世紀になってもそれは変わらないと思います。それと,今の子供たちは,管理され過ぎてますね。もっと自分で色々考えさせて,想像させて,自分の意志で行動させなくちゃ。人の後を追いかけても,その人より先へはいけませんからね」
――お弟子さんにも,自分で考えなさいと
「いや,何もしない。何も言わない(笑)。自分がやらなくては,自分がダメになっていくだけですよね。自分で形にして見せない限り,誰も何も言っちゃくれません。自由社会って厳しいですよね」
――先生のご両親はどんな方だったのでしょうか。
「放任主義(笑)親には親の世界があり,私には私の世界がある。戦時中ってこともありますけど,中学ですでに勤労動員で工場へ行って働いてましたから,授業料はそれで賄う。戦後,入学した専門学校はアルバイトしながら通学しましたから,自分で切り開いていくよりしょうがない。自然にそういう勉強をさせられたということでしょうね(笑)」
――今,一番燃えていらっしゃる事は。
「今年の4月26日から,東京で『人間万歳』という写真展をやります。これは写真集としても出版される予定です。私が海外へ出るようになってからの35年間に撮った写真をまとめたものでして。20世紀後半の人々の日常生活を撮ったものです。ものすごい枚数の中から,全体の流れを計算しながら194点にまとめる作業に一喜一憂しています(笑)」
訪れた国の数はすでに117カ国。自称,地球の放浪者は,その写真の如く,情熱の人でした。これからも,田沼先生の惚れられた題材から語られる,声なき声に耳,いや目をこらしたいと思う。惚れること,燃えること。そして,ひとつの道を生きる素晴らしさを教えられました。
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