その限りなき挑戦 7 | |
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映画監督・シナリオライター新藤 兼人 | |
撮影=大村 学 |
――近頃,自己の崩壊ということをよく言われますが―― 「誰でも自分の壁というものがありますから,突き当たったその時にどうするかと。やはり自分自身を見つめることしかないんじゃないかな。『午後の遺言状』という仕事で,杉村春子さんとご一緒した時,『私,何もない。今日だけよ』って杉村さんがおっしゃった。過去も未来も見つめて,今日を生きているということなんですよ。杉村さんが言うと,重みがあると同時に生きてゆく裏付けがあると思うんですよ。どんな風に生きていけばいいのかという裏付けですね。杉村さんも最後まで仕事をして死にましたから,私も最後まで仕事をして生きていきたい(笑)」 ――映画とは,監督の生き方まで見せ,問うわけですね。 「フィルムにねぇ私の個性を滲ませたい。今さらそんなことをと思われるかもしれませんが,私も30歳,40歳,50歳,60歳と個性もだんだん変わってきてるわけですよ。ですからその時々の心の目で見たもの,私の考え方を反映したいと思っているわけですね。80歳超えてみると,おじいさんの気持ちというものは,一般的に言われている『非常に平安な境地に達して,穏やかな気持ちになる』というような,そんな生やさしいもんじゃないんですよ。安定したものでもないんですよ。やっぱり生きてる,そこで生きてるんですよ。生きていられる時間が短いと思う分だけ,焦燥感があり,若い時より生々しいんですよ。80歳を超えたら人生観変わりましたね。若い人にはエネルギーがありますね。体力的にはかないませんが,こちらは挫折を知ったエネルギー,削り落としてもなお残っているエネルギーがあるというエネルギーですね。これは新しい発見ですね」 ――映画を撮りたいという若い方に一言。 「『やってごらんなさい』って言うんです。私も22歳の時に,いま思えば軽率ですが映画をやってみようと思ったんです。将来よくなるかどうかは,本人の責任なんですよ。技術修得するまでに自分との闘いがあって,技術が生まれる。技術がよく高まった時に,いい出会いがあるといい作品ができる。偶然でもあり,必然でもあると。自分自身のためにやってるんだから,どの瞬間にも自分自身を生きるという考え方がなければいけない。人生というものは,それくらい凄味があるもんだということを自覚しなければいけない」 ――真剣に生きるってことでしょうか? 「そうそう。それにはまず自分自身を見つめることですね。さっきも言ったように。ずっと見つめるということは追求することですから。過去へ遡って,自分のやってきた足跡を確かめることですね。そうすれば,何事も自分から始まって,自分で終わるんだっていうことがわかってきます。と同時に,私だけの自分じゃないってことも。他人を認めるとはどういうことかってことも。人生にはいろんな出会いがあり,壁にも突き当たります。映画でも,自分がいいと思っても他人に受け入れられなかったり,あまり良くなかったかなと思ったりしても,誉められたりと?結果が良ければいいのではない。人間はどう生きていくか,プロセスこそが大切なんです。人生はプロセスの問題だと思う。結果はいいか悪いかわからないですよ。でも,プロセスがどうでもよくって,結果がよくなるわけがない。そんなわけないですよ」 ――健康にはどんなことに気を付けていらっしゃいますか。 「私はね,自由にいろんなことを考えたい。そのために,逗子の家族とは別に,ひとりで暮らしているんです。それはね,私が思ういい仕事をするための条件でもあるんですね。でもまぁ,健康でなきゃいかんと思って,朝40分散歩して,決まった時間に食事して,夜は定刻に寝る。そうすると,いろんなことを考える時間も充分にできるんです。考えているような,考えていないような,ぼんやりとした『豊かなカンジの時間』もたっぷりありますよ(笑)」 年齢を重ねてなお凄味を増すエネルギー。映画に,生き方に,そして人に,一貫して流れる強い思い。それが私の心に映し出されていた感動の正体でした。新たな出会いは,長編小説を読み終えた時のような,深い感動と満足感を私にもたらせてくださいました。 |
※〔 〕内は筆者注。 |
新藤 兼人プロフィール 広島県出身。1936年新興キネマ美術部に入る。溝口健二に師事。'39年シナリオライターに転ずる。'50年近代映画協会を吉村公三郎、絲屋寿雄らと創立。'51年「愛妻物語」で監督となる。同年「毎日映画コンクール、シナリオ賞」を受賞。'60年「裸の島」でモスクワ国際映画祭グランプリ他数多くの賞を受賞。'96年「午後の遺言状」で日本アカデミー賞受賞。'98年「生きたい」でモスクワ国際映画祭グランプリ受賞。「原爆の子」「鬼婆」「ある映画監督の生涯」等多数。(株)近代映画協会会長・日本シナリオ作家協会理事長。最新作「三文役者」。 |
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