達人 その限りなき挑戦 1
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  プロ野球解説者衣笠 祥雄
撮影=柳沢通隆
音声サービス

衣笠さん 考え方次第でプラスにも
マイナスにもなる。
幸せになりたいなら
幸せになれる見方をすれば
いいわけです。

 強かった時代です。輝かしい光を放つ広島東洋カープの、その真中にいたのが衣笠祥雄氏でした。スランプで、あるいは怪我で、不調にあっても尚常に、豪快なスイングが鮮烈だった鉄人のエネルギッシュな源泉に迫ってみました。

衣笠さん ――鉄人衣笠、そのエネルギーの源は何だったのでしょう。
 「実にシンプルです。試合に出られると楽しいし、出られないとつまらない。僕は毎日試合に出たかった。だから頑張った(笑)。試合に出るという喜びが私を頑張らせてくれた。だから練習もできた。それとチームが強かったこと。強いチームって、周りにエネルギーが溢れているんです。頑張らざるを得ないんです」
――野球との出会いは?
 「小学生の頃は柔道をやっていたので、中学でも続けたかった。だけど柔道部がなかった(笑)。それでラクビー部の練習を見に行くと、グランドの隅で野球部が練習していたんです。そのとき一人の選手が打ったボールが、すごく気持ち良さそうに飛んでいって思ったのです。僕が力いっぱい打ったら,どこまで飛ぶかな?と。それが出会いでした。中学時代のチームは仲がよくて、練習が楽しかった。練習するから試合に勝てるし、勝つと、ますます楽しい。結局29年間野球を続けたわけですが、そんな楽しさが僕の野球の入り口だったと思います」
衣笠さん ――そして、名門、平安高校へ進まれましたね。
 「練習がきつくて。ただひたすらに、耐えに耐えた3年間でした(笑)」
――やめようとは思いませんでしたか。
 「いやいや、それは絶対になかった。目標がはっきりしていたんです。どうしても、甲子園にいきたかった」
――そしてカープへ。真剣勝負の舞台はいかがでした。
 「無謀でしたね、プロに入ったのは(笑)。だって、それまでプロ野球ってものを見たことが無かったんです。広島と契約して初めてプロ野球を見たぐらいですから(笑)。学校の練習から帰ってくると、ナイター中継は終わっていたし、夜もひたすら素振りだったでしょう。でも、とにかく一番レベルの高い世界で自分を試したかった。それが、プロ入り初のキャンプは、完全なカルチャーショックです。世の中にはこんなに野球のうまい人が沢山いるのかと...。それで逃げちゃったんですね。遊びにね。一度はかかる『はしか』みたいなものですが、2年間はそんな感じでした」
衣笠さん ――どうやって抜け出せたんでしょう?
 「スカウトの木庭さん、監督の根本さんとの出会いの中で、『衣笠』という自分自身のセールスポイントを考え始めたんですね。それまでの2年間は『はしか』状態だから(笑)、プロ3年目にして初めて、プロとしての目標というものを持ってグラウンドの練習に立ったわけです。目標が決まると、やらなければいけないことも分かってくる。そうやって、だんだんプロ野球選手らしくなれたんじゃないかと...」
――忘れられないのはカープ初優勝と、その後の黄金時代です。
 「初優勝には、大きな意味がありました。『がんばる』という『生き方』の意味や貴さを、その時初めて実感できたんです。成績を出すためとか、スターになるためとか、そんなんじゃない。それは、『喜ぶため』だったんですね。昭和50年にこれが実感できて,我々は変わった。今は苦しくても、最後に笑えばいいんだということが、信じられるようになった。あれから、カープは本当に強くなりました」
――スポーツ選手にはスランプがつきものですが。
 「大スランプはただ一度。昭和54年の前半ですね。クリーンヒットしかヒットじゃないと思っていたのですが、どんなヒットでも素直に喜べるようになった。自分を追い詰めて追い詰めて得たものがそれです。根っからの楽天家なのかもしれませんが、どんなことでも、考え方次第でプラスにもマイナスにもなる。幸せになりたいなら、幸せになる見方をすればいいわけです。引退の時も、非常に辛かったのですが、自分で出処進退を決められることは幸せかなと思いました」
衣笠さん ――自分の可能性を見出すのは難しいことだと思いますが。
 「可能性は、諦めない限り誰にでもあるはずです。大切なのは、それに出会ったとき、見過ごさずに最初の一歩を踏み出せるか、否か。掘り下げていけるか否かってこと。僕の場合には、ある日野球がポンと目の前に出てきて、気がついたらのめり込んでた。すると、野球の方が次から次へと僕の進むべき方向を示してくれた。夢を見せてくれた。そういうものの積み重ねで、今の僕がここにあるんだと。だから若い人は、もっともっと自分の好きなことを大切にしてほしい。自分の人生は自分で作るんですから」

 幸運の女神は、こんな人の上に微笑みたいと願うに違いない。久しぶりにお目にかかって、その思いを新たにしたことでした。彼はとても大切にするんです。人を、時間を、空間を。その不動の軸が、鉄人の人間力に繋がっているのでしょう。


衣笠 祥雄プロフィール

平安高等学校卒業後、昭和40年広島東洋カープに入団。背番号3。昭和62年6月13日ルー・ゲーリックが持つ連続試合出場世界記録2130を破って2131試合を達成、当日は自らホームランを放って華を添えた。161個のデッドボールも日本歴代2位。昭和62年には国民栄誉賞を受賞。現在は野球解説者として活躍する他、広島県立大学客員教授なども務める。連続試合出場記録は18年間で2215試合。いまだ破られること無き偉業。京都市出身。


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