走り続ける日々がつづき、とうとう身体の方がブレーキをかけて入院。ようやく立ち止まって自分を見直す時間を持つことができました。退院後、初めてのインタビュー。初心にかえり真っ白な状態で、素敵な原のり子さんにお会いしました。
――さっそくですが、どういうきっかけでバレエを始められたのですか。
「3歳のころバレエを習い始めた姉についていって、傍で遊んでいるうちに始めてた。いつ始めたのかはっきり覚えていないんです。中学生になっても、身体の条件もバレエに向いているとは言えなくって。例えば身長、手足の長さ、身体のバランスとか……当時はバレエ教室でいつも落ちこぼれていたんです。(笑)」
――それでも続けられたのは?
「なぜかよくわからないんです。バレリーナにもプロにもなる気はなかったんです。でも、バレエの線の美しさが大好きで、音楽や動くことも好きで『離れるのも淋しいな』と。それで、東京の大学へ進むと同時にバレエ学校に入ったんです。そこで森下洋子先生のご主人の清水先生の創る舞台に『出てみない!?』って言われたのが最初。小道具や頭飾りのデザインをすることもでき、舞台を創る楽しさを知りました。それから、とにかくバレエに関わっていきたいなぁって」
――バレリーナになるつもりのない方がなぜ海外まで習いに?
「海外のバレエ団を見てると楽しそう。『私たちとどこが違うのかしら?』と思っていた時期に、ドイツの先生に言われたんです『疑問があるのなら、考えるだけじゃなくて、やってみること。変えてみる、挑戦しなくちゃ』って。同じころ、あるヨガの先生に出会ったんです。身体を見るなり『あんたこんな不自由な身体でよくバレエ踊ってるわね』って。よく使う部分と使わない部分のバランスが極端に崩れてたんですね。『頑張らないで、徹底的に力を抜きなさい』って。今までは、ただ顔を真っ赤にして頑張ってたでしょ。(笑)それで、理論的な身体の使い方とか感覚のちがいを勉強しなくてはとニューヨークへ習いに行ったんです」
――ニューヨークを選ばれた理由は。
「当時ニューヨークに、素晴らしいダンサーたちが集まるスタジオがあったんです。そこでぜひ習いたいと。そしてデビッド・ハワード先生の稽古を受けたとたんに『これだ!』と思っちゃったんです。日本でできないものをとことん取ってやろう、吸収してやろうと、夜遅く着いても翌朝は一番に行って、スタジオが開くのを外で待ってました。ほんとにハングリーだったと思いますね」
――そんな素晴らしい師とよい環境があるのに、なぜ広島に戻られたの?
「ニューヨークに行って半年ぐらいたった時に、父が病気になっちゃって。広島に帰らなければいけなくなったんですね。それでも、学びたいものがあるんだから通うしかないな。広島でバレエを教えながら、時間を作ってはニューヨークへ。通い続けて20年近いですね」
――広島を拠点にしながら海外で活躍されてるのは大変では……
「ニューヨーク、東京、ヨーロッパと年間で地球を4、5周してるかな(笑)。普通、バレエを続けようと思うと、バレエ団でソリストとして残らない限り、20代で終わりなんです。でも、私が今でも舞台に立つことができるのは、広島に帰ってバレエを教えながら、海外でレッスンを続けてきたからだと思います」
――やめる方と続けている原さんとの違いはなんでしょう。
「生徒に教える以上責任がありますから、自分が踊らなければ教えられません。子どもたちは一人ひとり身体の条件が違うのですから、私の不自由な身体で学び、失敗から感じて消化したものは説得力が違うんです。それに、身体の条件のいい人はそれだけできれいに踊れますが、逆に苦労をしていないから、山を越せないってことがありますね。私の場合その条件の悪さが頑張れる源になっています」
――ずっと動き続けていらっしゃいますが、ほっとする時間はありますか。
「ひとりで稽古してる時。毎朝必ず鏡に向かい、身体をゆるめてあげる。座禅を組む感覚と同じだと思います。そうして毎日自分のゼロの地点、中心を必ず確認する。生徒にも言うんです。『外に飾りをつけるんじゃなくて、中身を充実させることが大切』って。そのためにも自分と向き合う時間、つくろわないで立っている時間が大切なんです」
――これからの目標ってなんでしょう。
「自分自身がね自分をまだ探してるんです。あっちこっちつついたら、まだいろんなものが出てきそうで(笑)。捨てられないプライドは本物ではないと私は思ってるのね。そのためにいらないものを削ぎ落として、いかにシンプルになれるか。常に変わりつづけたいと思っています」
ニュートラルでほとばしるような輝きを放つ感性、原のり子さん。固定観念に囚われないで自由に羽撃くその言葉の一つひとつが、私の心の襞に染み込んでいく。これからも変わりつづける原のり子さん。10年後、20年後も彼女の感性を受け止められる私自身でありたいと思いました。
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