達人 その限りなき挑戦 10
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  喜多流能楽師粟谷 菊生
撮影=柳沢通隆

粟谷さん ――いいものだけが、そうやって時代を超えて伝わっていく。
 「はい。ですが、親父や先輩方が私たちに教えてくれたものを、私たちは刈り取ってしまったわけですから、今度は私たちが植林していかなくちゃいけない。私は学生さんたちにも教えているんですが、夏の炎天下、砂浜にバケツで海水を撒くと、シュッと海水を吸い込んじゃうでしょ。それくらい吸収力が早くて。それが60歳を過ぎると、撒いた水が水溜まりになっちゃう(笑)。最初のころに教えた学生さんが、今ではもう55歳くらいになる人たちもいて、だんだんとまたお能の世界へ戻って来てくれるんですね」
――お能を愛して見てくださる方を育てるのも、次の世代を育てるってことですね。
 「『お能はわからない』とおっしゃる方がいらっしゃるんですけどね。その人が勉強してくれば、勉強してきただけのことをお能は応えてくれるんですよ。『こんなにのろいものはない』って言うけど、舞台をひとまわりすれば『はや天竺に着いて候』って言うんですから速いでしょ(笑)。でも最近、若い人が大勢来てくださるようになりました。これはありがたいことだなと思います」
――観客の方にご注文はありますか?
 「そうですね。最近、一番困っているのは、やたら拍手してくださること。シテが入らないうちに拍手。ワキが入らないうちにもう拍手。後見が松の作り物持って入ったら、これまた拍手。『鬼界ヶ島』なんかで、俊寛がとぼとぼ橋掛かりを帰っていくというとても大事な場面でまたまた拍手(笑)」
――拍手で舞台の役者さんと感動を共有するというのが、現代演劇だと思いますが、拍手をしないと言うのがお能にとって大切なマナーのひとつなんですね。
 「そうですねぇ。お客さまが満員の舞台にいるのに、人がひとりもいないように静かで、だけどお客さまの一人ひとりと繋がっていると感じる時。そういう時はとても幸せですね」
――これからの目標や夢は?
 「息子と孫との3人でお能ができれば幸せだなぁと思いますけど。あまり願いがかなっちゃうと昇天しちゃうといけませんから(笑)。だからまぁ、自然にまかせますよ。『自然体』って言えば最近やたら使われて、うまく逃げているようで嫌なんですけど、自然が一番いいでしょ。これからの一番の問題は、能役者としての幕をどこで引くかってことですね。あんまり無残な姿で去りたくはないし、引き際も自然体で終われたらいいなぁって思ってます。この間女房に『私が舞った後、まだ大丈夫だったらウィンクしろ。もうそろそろかなと思ったら両目つぶれ』なんて言ってたら、女房どっちの目でウィンクするのか忘れちゃったものだから両目つぶっちゃった。あれもう終わりかぁって(笑)」
粟谷さん――奥さまも素敵なんでしょうね。どんな方ですか。
 「えぇ。考えてみますに、このとんでもない男をずーっと育て上げてくれたのは女房ですよ。『ありがとうございます。私はもう十分幸せだからいつ死んでもいい。だけど貴方に会えなくなるのは淋しい』ってお礼言ったの。そしたら『その台詞、どこで覚えていらしたの。何人におっしゃったの』って(笑)。こちらが抵抗したり、勝手なことをやっているようでも、結局は女房の思い通りになってんだ。この私は女房の掌の中の孫悟空なの(笑)」
――(笑)それが夫婦円満の秘訣!?
 「どうですかね。『高砂』っていう仲睦まじい老夫婦の曲目がございますが、あれは別居結婚のはしりなの。一方は住之江で、もう一方は相生でしょ。いつも離れているから新鮮なの神々は。『本当かって!?』私の考えだからねぇ(笑)」

 インタビュー後、舞台を拝見した。楽しいインタビューとは対照的に、静寂の中で観客一人ひとりと演じる氏が、見えない糸でしっかりと結ばれたような心地よい緊張感。そして、いつまでも続く余韻。「叩けよさらば開かれん」なぜか、肩の力がす〜っと抜けていきました。


粟谷 菊生プロフィール

東京都出身。1922年舞も謠も豊麗で喜多流の名地頭ともうたわれた粟谷益二郎の次男として生まれる。父および先々代宗家故十四世喜多六平太、先代宗家故喜多実に師事。人との繋がりにも積極的で、観世流と喜多流の混成によるヨーロッパ初の能公演にも参加。大阪大学では40年前から喜多会を創設し、学生たちにも能を教えている。'91年観世寿夫記念法政大学能楽賞受賞。'96年重要無形文化財(人間国宝)の指定を受ける。2000年日本芸術院賞受賞。日本能楽会会員。財団法人十四世喜多六平太記念財団理事。能楽座代表理事。能楽協会監事。粟谷能の会主宰。


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